正宗工芸について

正応の頃(約七百年前)、時の執権北条氏に招かれて、各地よりここ鎌倉に数々の刀工が集まり、鎌倉鍛冶の基礎を築きました。

相州伝の祖、五郎入道正宗は、京・栗田口の刀工、行光の子に生まれ、当時の国状に従って従来の作風に改善を加え、相州独特の作風を生み出しました。
正宗後五代を経て、廣正の時、小田原北条氏に仕え、二代氏綱より綱の一字を賜り綱廣と名乗り、以来徳川氏の御用鍛冶として栄え、昭和に入ってからは、刀剣製造はもとより。刀の切れ味を加味した刃物及び鉄工芸品を製作いたしております。

古来、刀剣や刃物は「先を切り開く」と言われ、現在ではお祝いの引き出物、また記念品として皆様にご愛用いただいております。

歴史

鎌倉時代中期、五郎入道正宗が相州伝の祖を築く。

正宗後五代を経た廣正は、小田原北条氏に仕え二代氏綱より綱の一字を賜り綱廣と名乗り、以後綱廣の名前を襲名するようになる。

江戸時代は徳川直参の刀匠として仕え、明治時代の始まりまでは刀鍛冶として栄えた。

明治時代の廃刀令以後は、刀の仕事が目減りし刀だけでは厳しい状況となる。

第二十二代(先々代)から、農機具などを作る「野鍛冶」に農機具の作り方を教えてもらい、代わりに刀鍛冶を教えることで、仕事の幅を広げるようになった。

第二十二代の頃は、現在の場所よりも少し山の裾野の近くで営んでいたが、その後、駅近くの現在の場所に移転する。

第二十三代の頃に、工場の名前を正宗工芸美術製作所と変更する。

第二十四代が後を受け継ぐ。

正宗二十四代孫山村綱廣は、令和五年十二月九日に逝去。

現在、日蓮宗僧侶である山村尚正が家督を継承し、鍛冶伝統は山村綱廣の遺弟、刀匠、茂木一廣、森光廣によって継承されている。